2018年08月29日

西郷どん(NHK大河)と銀魂(実写版TV放映)の感想、初めて書きます

大河ドラマ「西郷どん」、しばらく見ていなかったけれど、長州藩や桂小五郎の話が多くなったこともあり、最近はまた観はじめています。

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主役の西郷を演じている鈴木亮平さんは、人柄の良さや包容力が感じられて、なかなか健闘していると思います。大久保役の瑛太さんはちょっとイメージが違いましたが、西郷の相方としてだんだん馴染んできました。

桂小五郎役の玉山鉄二さんはキャラが濃いめですこし恐さがありますが、イケメンで藩のリーダーとしての存在感もあり、許容の範囲内ということで納得しています。

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西郷吉之助(鈴木亮平)、大久保一蔵(瑛太)、桂小五郎(玉山鉄二)

でも場面の照明が相変わらず暗いですね。男性が主役の場合はとくに全体的に暗いです。室内など当時と同じ暗さにしなくても良いと思うのですが、視聴者は見にくいし、人物の顔が暗すぎて、表情がよくわからない時があります。また、滑舌の悪い役者は何を言っているのか聞き取れず、方言がはいるとなおさら難しくなります。

一話、一話に、内容を詰め込み過ぎるのもどうなのでしょう。この間も岩倉具視の話が延々と続いて、最後まで笑福亭鶴瓶さんが主役になっていましたが、見ていて、途中で飽きてきました。

もっとこれまでの回で、少しずつ岩倉の動向を追っていれば、あんなに一話全部を使って話を盛り込み過ぎることもなかったでしょう。

今回の薩長同盟も同様です。再度の長州征伐の話から、一度目の西郷・桂会談の反故、坂本龍馬を仲立ちとする商売の成立から薩長同盟まで、あまりにも慌ただしく詰め込み過ぎた感があります。

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薩長同盟にむけて奔走する中岡慎太郎(山口翔悟)と坂本龍馬(小栗旬)

桂が約束を破った西郷に怒っていたと思ったら、すぐ次の場面では伊藤といっしょに京都に入って、薩長同盟の交渉をしているのですから、「わっ、早っ。瞬間移動ですか?」と思ってしまいました。

同盟の場面もこれまでのドラマのお馴染みのシーン(竜馬の仲介で和解)をあえて用いずに、いるはずのない大久保、その他の薩摩藩士たちを出席させたうえで、イギリス留学中の薩長藩士たちの友情の話を持ち出したのは、まあ演出として「あり」としても、いきなり薩摩藩士全員で桂小五郎に土下座の場面がよくわからない。

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桂小五郎の前で土下座する西郷、大久保など薩摩藩士たち

というか、話の持っていき方が不自然で、「え、なんでこうなるの?」と思ってしまいました。

一話に詰め込みすぎにもかかわらず、間延びした場面もあります。テンポが悪いというか、間を取りすぎるというか、「握手するなら、さっさと握手してよ」とツッコミ入れたくなるくらい変な勿体をつけるのも、古くさい技法に感じます。

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歴史ドラマの重厚な感じも良いのですが、現代の感覚でみると「これ若者はついていけないかも。もうすこし切れよく、サクサク進行させないと」

という勝手な感想を述べたところで、長くなるので今回はこれでおしまいね。

次に、このあいだ、テレビで初放送された映画「銀魂・実写版」(テレ東)を観てみました。

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坂田銀時(小栗旬)

「あー、やっぱり若い人は食いつくよね、これ」って「はちゃめちゃ銀魂」と「大河ドラマ」を比較してどうすんの。ぜんぜん客層ちがうでしょ。

実写版って、ほぼアニメと同じなんですね、意外でした。去年、話題になっていたようですが、知らなかった。興味の対象がどんどん変わっていくので「もう卒業」と思っていましたからね。

でもねえ、桂さんが出てくるから、どうしても見ちゃうのですよ。

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超絶「おかしなコンビ」 桂小太郎とエリザベス

あい変わらずカッコいい桂小太郎さんと恐かわいい「きゅう太郎」じゃなくて「エリザベス」。おもしろいですね、この変な“あり得ないコンビ!”

神楽ちゃんもとてもキュートだし、新八も弱いんだか強いんだかわからなくて、とぼけた感じがおもしろい。

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モノ言わぬエリザベスを前にして、ボー然とする神楽(橋本環奈)、志村新八(菅田将暉)、銀時

このあと、桂さんが殺されたかも知れないと思って、なにか思い出して泣くんですよね、エリザベス。なんだか見ていてキューンとなっちゃった。

「ヅラ」呼ばわりの銀ちゃんも、辻斬りに本気で怒って斬りかかるし、神楽も、新八も、小太郎の行方を追って、必死に探す出そうとするし……

いろいろバカらしくて、笑っちゃう場面もあるけど、ほんわかさせられる場面もあって、だから今まで続いてきたのでしょうね、このコミック。でも、もうすぐ最終回を迎えるとか、ネットのニュースで知りました。映画の「実写版2」は先日公開されたようですね。さて、今度の評判はどうなるのでしょうか。


しばらく歴史から遠ざかっていたけれど、また「幕末サイト」がんばって更新しようかな。そんな気力がまだ残っていればだけど、このブログさえなかなか更新できないからねえ。

まあ、無理をしないでマイペースで、閉鎖されないように続けていこうと思います。

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2017年11月22日

米ハーバード大学が日本史を教材に使用している理由は…


先日(11月20日)の読売新聞に「ハーバード大 教材に日本史」という興味深い記事が掲載されていたのでご紹介いたします。

米ハーバード大で日本史がどう教えられているかを教授、学生に取材した『ハーバード日本史教室』(中公新書)という書籍が刊行されたそうです。

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著者の佐藤智恵(作家・コンサルタント)氏によると、日本史が通史の授業だけではなく、経済学、文化人類学、環境史、経営史、リーダーシップ論など、様々な授業でテーマとして取り上げられているのだとか。

例を挙げると、「民主主義と人権」という授業(アマルティア・セン教授 ノーベル経済学賞受賞)では聖徳太子と「17条憲法」が、文化人類学の授業では和食の歴史など、環境史では東日本大震災、経営史では三菱グループの創業者、岩崎弥太郎、リーダーシップ論では昭和天皇の「終戦の詔書」がそれぞれ教材になっています。

通史の授業を受ける学生のあいだで特に人気があるのは、「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士の事件。合理的なアメリカ人でも「大義のためにすべてを犠牲にする姿」には感銘を受けるのだそうです。

経営史を教えるジェフリー・ジョーンズ教授は「アメリカは不確実性の高い時代を迎え、学生の間で歴史から学びたいという機運が高まっている」と述べ、その中でも特に歴史の長い日本から普遍的な知恵を学び取ろうとしているのではないか、ということです。

おもしろいですねえ。日本人にはわからない、というか、気づかない日本の文化や歴史の魅力や価値が、ここ数十年のうちに外国人によって見出されるという現象が起きています。外国人にはわからないだろう、という我々の先入観がどんどん崩されているのですね。

豆腐は味が淡泊すぎて、外人、とくに西洋人の味覚には合わないと思っていたら、最近、米国でも豆腐がダイエット食品・健康食品としてブームになっているのだとか。味にクセのある味噌もまたしかり。寿司やラーメンは言うまでもなくすでに人気の日本食ですし、蕎麦も人気になりつつあります。

でも、食文化だけでなく、日本の歴史そのものに興味をもってくれるのは、歴史サイトを持つ私としては大変うれしいことです。まあ、忍者・侍とかは以前から関心を持たれているようですが、もっと具体的な歴史上の事件や人物に興味の対象が広がっても、驚くことではないという気がしています。

たとえば、リーダーシップ論でいえば、戦国時代の信長・秀吉・家康を取り上げて、三者の特徴を語っている言葉を紹介すれば、学生は興味を持つかもしれません。

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」は信長、「泣かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」は秀吉、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」は家康、と天下をとった三人の武将の特徴的表現を紹介して、あなたはどのタイプか、どのリーダー像に惹かれるか、などと学生に問いかけるのです。

強引だが実行力あるリーダーか、自信家で説得力のあるリーダーか、機が熟するのを辛抱強く待って風雪に耐えるリーダーか?

こんなふうな切り口で語ったら、日本史もなかなか面白い、と改めて思い、ではこの三人はいったいどんなことをしたのか、とさらに興味を深めるきっかけになるかもしれませんね。

他にも、やはり『幕末・維新』の歴史は語りようによっては、ドラマ以上にドラマチックな印象を与え得るのではないでしょうか。高杉晋作のたった一人の蹶起から始まる長州内戦の勝利とか、桂小五郎と彼を支える芸妓幾松の逃亡と再会の危機感いっぱいのリアル・ドラマなど、外国人の学生たちにぜひ紹介したいものです。

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「おもしろき こともなき世を おもしろく」(晋作)してくれた人たちは、他にもたくさんいるでしょう。

国際社会では、西洋の歴史ばかりがメジャー視されて、注目されるのでしょうが、近年はフィギュアスケートでも、スキー競技でも、東洋の国・日本が強みを見せてきました。ですから歴史・文化においても、いつか日本が外国で当たりまえに学ばれ、話される時がくるかもしれませんね。

日本食はすでに国際化されていますし、我々の気づかない日本の魅力はまだまだ発掘されそうです。

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2017年02月11日

幕末・戦国時代の西洋人がみた日本人&中国人との違い

日本で西欧列強への警戒心が芽生えたのは黒船襲来(1853 ペリー提督率いる米艦隊)の時ではありません。イギリスが清国に対して起こしたアヘン戦争(1840)を知ったときからです。この事変を徳川幕府に伝えたのは、長崎で対日貿易を独占していたオランダでした。

清帝国は圧倒的なイギリス軍に敗れて、南京条約(1842)を結ばされ、香港をとられたばかりでなく、賠償金まで支払わされたのです。これがきっかけで中国の半植民地化が進んでいき、(日本をのぞく)他のアジア諸国も同じような運命に襲われることになりました。

幕府は開国をすすめるオランダ国王の忠告には従いませんでしたが、アヘン戦争の情報は諸藩主、藩士らにもつたわり、大きな衝撃を与えたのです。佐賀藩はすぐに大砲の製造所をつくり、鉄を溶かすために日本で初の反射炉を建設しました。薩摩藩でも反射炉、製鉄所、洋式帆船などを建造し、水戸藩でも反射炉を操業して十数門の大砲をつくりました。

こうして国防意識にめざめた日本は明治維新を達成して、幸いにも植民地化を免れることができましたが、徳川幕府が米国の圧力に屈して鎖国を解き、日米和親条約を結んだのは1854年でした。その後、米国から初代駐日総領事としてタウゼント・ハリスが赴任し、1858(安政3)年に日米修好通商条約が結ばれました。

はなはだ不平等な条約でしたが、そのなかに「アヘン輸入禁止」の条項が含まれていたことは注目に値します。中国の二の舞になるまいと、日本側が交渉でがんばったのでしょう。

さて、日本の開国以降、日本にやってきた西洋人たちの眼に、日本や日本人はどのように映ったのでしょうか。

初代イギリス総領事ラザフォード・オールコック(1859年に赴任、のち公使)は日本各地を旅してまわり、富士山にまで登っています。そのころは攘夷派による外国人殺傷事件などもあり、外交上は難しく骨の折れることもありましたが、日本の美術工芸品には高い価値を見いだし、熱心に収集して、そのすばらしさを本国にも伝えるほどでした。

彼は日本からの遣欧使節を1862年5月に予定されていたロンドン万国博覧会の開催時期に合わせ、万博会場で日本の展示品とともに、使節団を西欧社会にデビューさせる演出者となりました。使節団もこの機会にイギリスの様々な場所を見て回りました。

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遣欧使節団 

「彼らのノートはメモやスケッチでいっぱいになっていたが、その様子からは自国の産業を興す際の参考にするため、十分な手本を入手して帰ろうとしているのが明らかに見てとれた。それまでのどの見学者も、わが国の人々のなかにさえも、これほど尽きることのない興味と熱心さとを、一行の全員が見せたグループはなかったと言っていい」(『タイムズ』紙 1862年5月2日)

オールコックには日本滞在中(1859〜1862)の経験を記した『大君の都』(1863年刊)のほかに、『日本の美術と美術産業』(1878年刊)という著書があります。


「あらゆる種類の工芸において、日本人は疑いの余地もなく、卓越した能力を示している。彼らの陶磁器、銅製品、絹織物、漆器、そして冶金の技術一般について、デザインと政策の双方の過程に精巧な技術が表現された工芸品などに接していると、私は何のためらもなく、それらがヨーロッパの最高の製品と比肩しうるのみならず、日本人はこれらの各分野で、我々にはまねのできない作品を生み出すことができると言える」(『大君の都』から)

その後、パリ万博(1867)にも日本は参加しており、将軍の名代として徳川昭武を使節とする代表団が派遣されました。なお、この時には幕府のほかに薩摩藩、佐賀藩も参加しています。

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遣仏使節団 前列に座っている少年が徳川昭武

この万博には中国も出品していましたが、展示品の種類が少なかったのか、日本のほうが「中国よりも完璧で、多様性に富んでいる」とした新聞評が見られました。「日本」と題する記事では、両国の国民性が比較されています。

パリ万国博覧会における日本の評判と中国人との相違について

この二つの国民の間には、実際に大きな違いが巌然として存在している。一方が進歩主義を絵に描いたような国民であるのに対して、他方は保守主義の権化のような国民なのである。

中国人は過去を振り返るのが好きだが、日本人は未来を見つめることに喜びを感じている。また、中国人はある計画の新しさを、それに反対する理由と考えているが、日本人はあらゆる新機軸を好意的かつ楽天的な期待をもって迎えている。

中国人は保守的で歩みがのろく、大君と帝の臣民である日本人は活発で頭の回転が速く多才である。これほど対照的なものはまずないだろう。過去数年間にわたる通商の経験から、われわれはそういった印象を確固たるものにした。
(『ノース・チャイナ・ヘラルド』紙の記事から抜粋)

ついでに、『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載された「カリフォルニア在住の中国人と日本人」から

日本人は外国が進んでいる点にはすべてその利点を認め、我々の国を旅行するときは我々の風俗習慣をすぐに取り入れる。彼らは我々の諸芸を完全にマスターしようとし、我々の諸制度をすみずみまで研究しようとする。この点で中国人とは異なる。

中国人は自分自身が法であり、どれほど長期にわが国に滞在しようとも、本質的に中国人のままである。もし天地創造に関するモーゼ流の説明が正しくても、中国人の文明は我々の文明よりも古く、そのことで完全に満足している。


これらの記事は、今から150年前の1867年に書かれたものです。また、パリ万博で展示された浮世絵については、日本の関連書籍によると、

その独特な表現法はフランスの画家たちに多大なカルチャーショックを与え、ジャポニズムが一大ムーブメントとなった。浮世絵から刺激を受けた画家の中から、1874年、パリでモネ、ドガ、ルノワールらが第1回のグループ展を開き、それが印象派の旗挙げとなった。


さらに、1500年代後半の戦国時代にさかのぼってみると、これは来日した宣教師が熱心に寺院に参詣する日本人を批判している文章なのですが、

「こうした誤った救いを渇望している有様に関しては、涙し、同情せずにはいられません。そして私どもがもっとも驚かざるを得ないのは、日本人は、シナ人やインド人とはすべてにおいて非常に異なっているにもかかわらず、かくも賢明、清潔、優秀な国民の許でなおかつこうしたひどい無知を見いだすことなのです」(ルイス・フロイスの『日本史』から)

かくも賢明な日本人が仏教徒でいてはいけない、キリスト教を信仰するべきだ、ということなのでしょうか。また、フロイスは「日本人は多くの点でスペイン人に優る」とも本国への書簡(1565年)で述べています。

それにしても、400年以上も前から日本人は大陸系アジア人とはまったく異質であることが指摘されていたのですね。現在も中・韓となかなか分かり合えないのは、もっともであり、根が深いということなのでしょう。

日本とは文化も、歴史も、国民性も異なる大・小中華の隣国と、今後も様々な葛藤が生ずるだろうことを、我々は覚悟しなくてはならないのかもしれません。


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2016年12月10日

西郷隆盛&石田三成の最近発見された肖像画はこんな感じ(「お宝ガレリア」から)

この間「お宝ガレリア」(NHK)で、西郷隆盛と石田三成の最近発見された肖像画を紹介していました。始めをちょっと見逃してしまいましたが、最初に登場した西郷さんの肖像画はこれです。

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床次正精画 1887年ごろ 

陸軍元帥の制服を着た西郷で、従来の西郷像とイメージはあまり変わらないようです。

次に紹介されたのがこれ。ボタンのついた白いシャツを着ているところなどは、和洋が混ざりあった実際的な感じがします。西郷と実際に会った人が描いたということで、日常のリラックスした姿ですね。

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服部英龍画 制作年不明 

髯が生えているとだいぶ印象が違ってきますが、太い眉と眼などに豪快なイメージが残っています。

最後になる3枚目はやはり実際に西郷を知っている人が描いた絵です。持ち主の話では、20年前に骨董店の片隅で新聞に包まれていたものを入手したといいます。

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平野五岳画 明治9年10月

平野は西郷と酒を酌み交わす仲だったそうで、豪快さが影をひそめた穏やかな雰囲気の西郷さんになっていますね。西郷の一族の話によると、学者肌で繊細な一面があったらしく、この絵はまさにそんな感じで、これまでのいかついイメージを覆しています。


次に1600年に関ヶ原の戦いで破れた石田三成ですが、彼の頭蓋骨の写真が存在していたとか!

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明治40年に大徳寺三玄院の墓所を改葬した際に、掘り出された遺骨を撮影していたのですね。三成の顔の特徴は女性的で、すこし出っ歯だったとか。

三成の次男・八郎の子孫が、肖像画をつくるために、科学警察研究所の元主任研究官に三成の顔の復元を依頼しました。それで、出来上がったのがこれ。

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法医学の専門家の指導をあおぎ、この復元された顔をもとにプロの日本画家に三成の肖像画を依頼しました。

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石田三成像 1980年完成。

領国で慕われていたという三成の柔和なイメージがよく表れていますね。

どちらも歴史的には敗者ですが、西郷はもちろん、三成も最近はゲームなどの影響で、人気上昇中なのだとか。私的には、大河ドラマ「真田丸」で三成を演じた山本耕史さんのイメージが強いです。脚本がそうなのか、冷たい感じに作りすぎて、残念な気がしました。もうちょっと人間的なやさしさを見せてやってもよかったかな。

以前にも話したと思いますが、本ブログ、今年中は本腰を入れることができません。あと何回更新できるかわかりませんが、来年から徐々に力を傾注していきますので、今後ともよろしくお願いいたします。
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2016年11月02日

新選組の栄光と挫折−3隊士、それぞれの生き方

幕末の動乱期には、多くの傑出した志士たちが活躍しましたが、時代の荒波にもまれながら、志半ばで散っていった尊攘・倒幕派の者たちも数多くいました。その対極には当然、佐幕派として活躍した者たちもいたわけです。

私はどちらかといえば、倒幕派の志士たちに関心をもって資料を集め、研究をしている者ですが、佐幕派、とくに新選組の中にも関心を引く者たちがいます。佐幕派・倒幕派、いずれの側にも「愛憐の情」を感じる人物がいることは、同じ日本人だからなのでしょう。

どちらが正しく、どちらが悪いか、ということではなく、大きな時代の流れの中でそれぞれが、それぞれの立場で、懸命に生きた結果が歴史として残ったということであり、彼らの評価が時代によっても、地域によっても変わってくるのは当然のことだと思います(京都で人気の長州藩士も徳川家の拠点、東国では敵として疎まれるし、逆もまた然りです)。

ですから、倒幕派には高杉晋作や西郷隆盛など、佐幕派には勝海舟や近藤勇など、どちらの側にも幕末のヒーローを見いだして共感を抱くのが我々日本人の特徴なのですね。「昨日の敵は今日の友」「敵に塩をおくる」「和をもって貴しとなす」という言葉もあります。

たとえば、函館戦争の首魁・榎本武揚がのちに許されて新政府の海軍卿、文部・外務大臣などを歴任したことは、いかにも日本らしい対処といえます。旧敵といえども有能な人物は取り込んで活用する。時を経れば、あるいは捕縛すれば、敵も味方になるのは将棋でも同様ですね。西洋のチェスではそうはいきません。

前段が長くなりましたが、私が関心を抱く新選組の3隊士ですが、ひとりは、やはり一番人気の土方歳三(1835-1869)、二人目は山南敬助(1833-1865)、最後のひとりは斎藤一(1844-1915)です。この3人は同じ新選組隊士でありながら、まったく異なる運命をたどった典型例と思われ、その生きざまが興味深いからです。

土方歳三は新選組のまさに本流を歩んで函館戦争までを戦い抜き、降伏を拒否して戦場にとび出し、壮絶な最期を遂げました。一途で、かっこう良く、潔い人物として、絶大な人気を誇る所以(ゆえん)でしょう。

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土方歳三の修正ブロマイド

山南敬助はその本流から外れて迷路に入り、近藤との確執もあって脱走を決行。結局、連れ戻されて切腹して果てるという、悲劇の運命をたどりました。土方とともに副長(のち総長)を務めた山南は学識が深く、腕もたち、温厚でありながら、プライドの高い人物だったといいます。

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山南敬助のお墓(光縁寺)

斎藤一(本名は山口)は本流を歩みながら、土方とは別の潮流に身を投じて会津藩の娘と結婚。維新以降は藤田五郎と名を変えて明治政府の警視庁に勤務し、西南戦争を経て、3人の男児にも恵まれ、72歳で亡くなるという、3人の中では一番長寿で幸福な晩年を過ごしました。

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斎藤一の姿絵(中島登画)。剣の達人だったという。首を持ってちょっと恐っ

3人の細かい経歴については、ネットでも簡単に調べられますのでここでは省略させていただきますが、同じ新選組隊士でありながら、こんなにも異なる運命が待ち受けていたことは、新選組が江戸から京都に着いたころには想像もできなかったでしょう(斎藤だけは文久3年に京都で入隊)。

「池田屋の変」で新選組は栄光の頂点に達しますが、その後は近藤勇の変貌、隊の分裂、内紛などで結束はしだいに乱れてゆきます。やがで運命の潮目が変わり、すべてを押し流してゆく時代の激流に抗う力もなくなり、鳥羽・伏見での幕府軍敗戦を経たのち、近藤はついに新政府軍に投降。1868年、「泣く子も黙る」と恐れられた新選組局長の最期は、斬首という無残な結果におわりました。

3人の中でも、前半と後半の人生に劇的な変化がみられるのは、斎藤一かもしれません。新選組時代の自分と、明治政府の官員となった自分と、どのような意識の変化があったのでしょう。ひとつの時代が終わり、新しい時代が来たことを、ごく自然に受け止めたのか。生きるために現実的な選択をしたのか。もし彼がなんらかの手記を残しているなら、ぜひ読んでみたいものです。


昔は、生まれた家や地域で大方の人生が決定される確率が、現代よりもずっと高かったと思います。倒幕の中心となった藩(薩長土肥)はみな京都以西に位置し、官軍(反幕側)と戦った藩(佐幕側)は関東以北の奥羽地方にかたまっています。

各藩に方言があり、気質も異なり、言葉での意思疎通もかなり難渋したようです。もともと日本人は大陸から、海洋から、はるかな旅をしてたどり着いた他民族と先住民が交わって形成された民族ですから、その外貌も多種多様なのですね。ちなみに薩摩人は南方系、長州人は朝鮮系ともいわれているようです(中世に同地を支配した大内氏の始祖は、古代朝鮮の国、百済の琳聖太子という伝承あり)。

まあ、日本人の形成過程は諸説ありますが、自然災害の多い日本列島に住み着けば、災害を乗り越えて安定した生活を守るために、みな一致協力せざるをえないわけで、わが国において『和』が重視されるのは必然の結果だったのでしょう。

生まれた地域によって、その人の大半の人生が決まる、という話に戻りますが、もし土方歳三が長州に生まれていたら、どうだったでしょうか。高杉晋作に勝るとも劣らない尊攘志士になっていたと思われます。

函館で散って名を残した土方も悲劇性があって、歴史のロマンを掻き立てますが、同じ藩で、高杉と土方コンビの快刀乱麻の活躍を見たかったという気もします。土方は高杉のように病死しなかったと思うので、幕末維新を生き抜いて、西郷に次ぐ陸軍大将になっていたかもしれませんね(山縣はどうなる?)。

こうした歴史の端境期に重要な役割を果たした者たちは、著名な人物だけではありません。次回の歴史テーマでは、一般にはあまり注目されない水戸藩士について語ってみようと思います(単なる予定)。
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