2017年02月11日

幕末・戦国時代の西洋人がみた日本人&中国人との違い

日本で西欧列強への警戒心が芽生えたのは黒船襲来(1853 ペリー提督率いる米艦隊)の時ではありません。イギリスが清国に対して起こしたアヘン戦争(1840)を知ったときからです。この事変を徳川幕府に伝えたのは、長崎で対日貿易を独占していたオランダでした。

清帝国は圧倒的なイギリス軍に敗れて、南京条約(1842)を結ばされ、香港をとられたばかりでなく、賠償金まで支払わされたのです。これがきっかけで中国の半植民地化が進んでいき、(日本をのぞく)他のアジア諸国も同じような運命に襲われることになりました。

幕府は開国をすすめるオランダ国王の忠告には従いませんでしたが、アヘン戦争の情報は諸藩主、藩士らにもつたわり、大きな衝撃を与えたのです。佐賀藩はすぐに大砲の製造所をつくり、鉄を溶かすために日本で初の反射炉を建設しました。薩摩藩でも反射炉、製鉄所、洋式帆船などを建造し、水戸藩でも反射炉を操業して十数門の大砲をつくりました。

こうして国防意識にめざめた日本は明治維新を達成して、幸いにも植民地化を免れることができましたが、徳川幕府が米国の圧力に屈して鎖国を解き、日米和親条約を結んだのは1854年でした。その後、米国から初代駐日総領事としてタウゼント・ハリスが赴任し、1858(安政3)年に日米修好通商条約が結ばれました。

はなはだ不平等な条約でしたが、そのなかに「アヘン輸入禁止」の条項が含まれていたことは注目に値します。中国の二の舞になるまいと、日本側が交渉でがんばったのでしょう。

さて、日本の開国以降、日本にやってきた西洋人たちの眼に、日本や日本人はどのように映ったのでしょうか。

初代イギリス総領事ラザフォード・オールコック(1859年に赴任、のち公使)は日本各地を旅してまわり、富士山にまで登っています。そのころは攘夷派による外国人殺傷事件などもあり、外交上は難しく骨の折れることもありましたが、日本の美術工芸品には高い価値を見いだし、熱心に収集して、そのすばらしさを本国にも伝えるほどでした。

彼は日本からの遣欧使節を1862年5月に予定されていたロンドン万国博覧会の開催時期に合わせ、万博会場で日本の展示品とともに、使節団を西欧社会にデビューさせる演出者となりました。使節団もこの機会にイギリスの様々な場所を見て回りました。

basisetu02.jpg
遣欧使節団 

「彼らのノートはメモやスケッチでいっぱいになっていたが、その様子からは自国の産業を興す際の参考にするため、十分な手本を入手して帰ろうとしているのが明らかに見てとれた。それまでのどの見学者も、わが国の人々のなかにさえも、これほど尽きることのない興味と熱心さとを、一行の全員が見せたグループはなかったと言っていい」(『タイムズ』紙 1862年5月2日)

オールコックには日本滞在中(1859〜1862)の経験を記した『大君の都』(1863年刊)のほかに、『日本の美術と美術産業』(1878年刊)という著書があります。


「あらゆる種類の工芸において、日本人は疑いの余地もなく、卓越した能力を示している。彼らの陶磁器、銅製品、絹織物、漆器、そして冶金の技術一般について、デザインと政策の双方の過程に精巧な技術が表現された工芸品などに接していると、私は何のためらもなく、それらがヨーロッパの最高の製品と比肩しうるのみならず、日本人はこれらの各分野で、我々にはまねのできない作品を生み出すことができると言える」(『大君の都』から)

その後、パリ万博(1867)にも日本は参加しており、将軍の名代として徳川昭武を使節とする代表団が派遣されました。なお、この時には幕府のほかに薩摩藩、佐賀藩も参加しています。

basisetu03.jpg
遣仏使節団 前列に座っている少年が徳川昭武

この万博には中国も出品していましたが、展示品の種類が少なかったのか、日本のほうが「中国よりも完璧で、多様性に富んでいる」とした新聞評が見られました。「日本」と題する記事では、両国の国民性が比較されています。

パリ万国博覧会における日本の評判と中国人との相違について

この二つの国民の間には、実際に大きな違いが巌然として存在している。一方が進歩主義を絵に描いたような国民であるのに対して、他方は保守主義の権化のような国民なのである。

中国人は過去を振り返るのが好きだが、日本人は未来を見つめることに喜びを感じている。また、中国人はある計画の新しさを、それに反対する理由と考えているが、日本人はあらゆる新機軸を好意的かつ楽天的な期待をもって迎えている。

中国人は保守的で歩みがのろく、大君と帝の臣民である日本人は活発で頭の回転が速く多才である。これほど対照的なものはまずないだろう。過去数年間にわたる通商の経験から、われわれはそういった印象を確固たるものにした。
(『ノース・チャイナ・ヘラルド』紙の記事から抜粋)

ついでに、『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載された「カリフォルニア在住の中国人と日本人」から

日本人は外国が進んでいる点にはすべてその利点を認め、我々の国を旅行するときは我々の風俗習慣をすぐに取り入れる。彼らは我々の諸芸を完全にマスターしようとし、我々の諸制度をすみずみまで研究しようとする。この点で中国人とは異なる。

中国人は自分自身が法であり、どれほど長期にわが国に滞在しようとも、本質的に中国人のままである。もし天地創造に関するモーゼ流の説明が正しくても、中国人の文明は我々の文明よりも古く、そのことで完全に満足している。


これらの記事は、今から150年前の1867年に書かれたものです。また、パリ万博で展示された浮世絵については、日本の関連書籍によると、

その独特な表現法はフランスの画家たちに多大なカルチャーショックを与え、ジャポニズムが一大ムーブメントとなった。浮世絵から刺激を受けた画家の中から、1874年、パリでモネ、ドガ、ルノワールらが第1回のグループ展を開き、それが印象派の旗挙げとなった。


さらに、1500年代後半の戦国時代にさかのぼってみると、これは来日した宣教師が熱心に寺院に参詣する日本人を批判している文章なのですが、

「こうした誤った救いを渇望している有様に関しては、涙し、同情せずにはいられません。そして私どもがもっとも驚かざるを得ないのは、日本人は、シナ人やインド人とはすべてにおいて非常に異なっているにもかかわらず、かくも賢明、清潔、優秀な国民の許でなおかつこうしたひどい無知を見いだすことなのです」(ルイス・フロイスの『日本史』から)

かくも賢明な日本人が仏教徒でいてはいけない、キリスト教を信仰するべきだ、ということなのでしょうか。また、フロイスは「日本人は多くの点でスペイン人に優る」とも本国への書簡(1565年)で述べています。

それにしても、400年以上も前から日本人は大陸系アジア人とはまったく異質であることが指摘されていたのですね。現在も中・韓となかなか分かり合えないのは、もっともであり、根が深いということなのでしょう。

日本とは文化も、歴史も、国民性も異なる大・小中華の隣国と、今後も様々な葛藤が生ずるだろうことを、我々は覚悟しなくてはならないのかもしれません。


posted by orion at 16:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/178737728
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック