2016年11月02日

新選組の栄光と挫折−3隊士、それぞれの生き方

幕末の動乱期には、多くの傑出した志士たちが活躍しましたが、時代の荒波にもまれながら、志半ばで散っていった尊攘・倒幕派の者たちも数多くいました。その対極には当然、佐幕派として活躍した者たちもいたわけです。

私はどちらかといえば、倒幕派の志士たちに関心をもって資料を集め、研究をしている者ですが、佐幕派、とくに新選組の中にも関心を引く者たちがいます。佐幕派・倒幕派、いずれの側にも「愛憐の情」を感じる人物がいることは、同じ日本人だからなのでしょう。

どちらが正しく、どちらが悪いか、ということではなく、大きな時代の流れの中でそれぞれが、それぞれの立場で、懸命に生きた結果が歴史として残ったということであり、彼らの評価が時代によっても、地域によっても変わってくるのは当然のことだと思います(京都で人気の長州藩士も徳川家の拠点、東国では敵として疎まれるし、逆もまた然りです)。

ですから、倒幕派には高杉晋作や西郷隆盛など、佐幕派には勝海舟や近藤勇など、どちらの側にも幕末のヒーローを見いだして共感を抱くのが我々日本人の特徴なのですね。「昨日の敵は今日の友」「敵に塩をおくる」「和をもって貴しとなす」という言葉もあります。

たとえば、函館戦争の首魁・榎本武揚がのちに許されて新政府の海軍卿、文部・外務大臣などを歴任したことは、いかにも日本らしい対処といえます。旧敵といえども有能な人物は取り込んで活用する。時を経れば、あるいは捕縛すれば、敵も味方になるのは将棋でも同様ですね。西洋のチェスではそうはいきません。

前段が長くなりましたが、私が関心を抱く新選組の3隊士ですが、ひとりは、やはり一番人気の土方歳三(1835-1869)、二人目は山南敬助(1833-1865)、最後のひとりは斎藤一(1844-1915)です。この3人は同じ新選組隊士でありながら、まったく異なる運命をたどった典型例と思われ、その生きざまが興味深いからです。

土方歳三は新選組のまさに本流を歩んで函館戦争までを戦い抜き、降伏を拒否して戦場にとび出し、壮絶な最期を遂げました。一途で、かっこう良く、潔い人物として、絶大な人気を誇る所以(ゆえん)でしょう。

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土方歳三の修正ブロマイド

山南敬助はその本流から外れて迷路に入り、近藤との確執もあって脱走を決行。結局、連れ戻されて切腹して果てるという、悲劇の運命をたどりました。土方とともに副長(のち総長)を務めた山南は学識が深く、腕もたち、温厚でありながら、プライドの高い人物だったといいます。

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山南敬助のお墓(光縁寺)

斎藤一(本名は山口)は本流を歩みながら、土方とは別の潮流に身を投じて会津藩の娘と結婚。維新以降は藤田五郎と名を変えて明治政府の警視庁に勤務し、西南戦争を経て、3人の男児にも恵まれ、72歳で亡くなるという、3人の中では一番長寿で幸福な晩年を過ごしました。

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斎藤一の姿絵(中島登画)。剣の達人だったという。首を持ってちょっと恐っ

3人の細かい経歴については、ネットでも簡単に調べられますのでここでは省略させていただきますが、同じ新選組隊士でありながら、こんなにも異なる運命が待ち受けていたことは、新選組が江戸から京都に着いたころには想像もできなかったでしょう(斎藤だけは文久3年に京都で入隊)。

「池田屋の変」で新選組は栄光の頂点に達しますが、その後は近藤勇の変貌、隊の分裂、内紛などで結束はしだいに乱れてゆきます。やがで運命の潮目が変わり、すべてを押し流してゆく時代の激流に抗う力もなくなり、鳥羽・伏見での幕府軍敗戦を経たのち、近藤はついに新政府軍に投降。1868年、「泣く子も黙る」と恐れられた新選組局長の最期は、斬首という無残な結果におわりました。

3人の中でも、前半と後半の人生に劇的な変化がみられるのは、斎藤一かもしれません。新選組時代の自分と、明治政府の官員となった自分と、どのような意識の変化があったのでしょう。ひとつの時代が終わり、新しい時代が来たことを、ごく自然に受け止めたのか。生きるために現実的な選択をしたのか。もし彼がなんらかの手記を残しているなら、ぜひ読んでみたいものです。


昔は、生まれた家や地域で大方の人生が決定される確率が、現代よりもずっと高かったと思います。倒幕の中心となった藩(薩長土肥)はみな京都以西に位置し、官軍(反幕側)と戦った藩(佐幕側)は関東以北の奥羽地方にかたまっています。

各藩に方言があり、気質も異なり、言葉での意思疎通もかなり難渋したようです。もともと日本人は大陸から、海洋から、はるかな旅をしてたどり着いた他民族と先住民が交わって形成された民族ですから、その外貌も多種多様なのですね。ちなみに薩摩人は南方系、長州人は朝鮮系ともいわれているようです(中世に同地を支配した大内氏の始祖は、古代朝鮮の国、百済の琳聖太子という伝承あり)。

まあ、日本人の形成過程は諸説ありますが、自然災害の多い日本列島に住み着けば、災害を乗り越えて安定した生活を守るために、みな一致協力せざるをえないわけで、わが国において『和』が重視されるのは必然の結果だったのでしょう。

生まれた地域によって、その人の大半の人生が決まる、という話に戻りますが、もし土方歳三が長州に生まれていたら、どうだったでしょうか。高杉晋作に勝るとも劣らない尊攘志士になっていたと思われます。

函館で散って名を残した土方も悲劇性があって、歴史のロマンを掻き立てますが、同じ藩で、高杉と土方コンビの快刀乱麻の活躍を見たかったという気もします。土方は高杉のように病死しなかったと思うので、幕末維新を生き抜いて、西郷に次ぐ陸軍大将になっていたかもしれませんね(山縣はどうなる?)。

こうした歴史の端境期に重要な役割を果たした者たちは、著名な人物だけではありません。次回の歴史テーマでは、一般にはあまり注目されない水戸藩士について語ってみようと思います(単なる予定)。
posted by orion at 18:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史
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